「デカルト」と「レヴィナス」を並べて語る理由

存在の彼方へ』で頻出する〈近さ〉は、ハイデガーに極まる近代的存在論への批判概念として、レヴィナスの哲学体系全体をつらぬいて在ることを拙いながらも示そうと努めた。

 

振り返って読んでみると、仔細に論じるべき大きなテーマがいくつも配置されており、結局何ひとつ深く語れずに、全体を外観するにとどまったという印象をもった。一つのテーマをもっと丁寧に論じる姿勢が必要だと思った。次回以降の課題にしたい。

 

とはいえ、その記事が無駄になったというわけではなく、書いていくうちに次に考えるべきテーマが見えてきたのは大きな一歩だった。そのなかで特に注意深く追ってみたいと思ったのは〈一者〉の概念である。

 

〈一者〉はもともとプロティノスの概念らしいのだが、レヴィナスに影響を与えたかどうかはわからない。少なくともレヴィナスの文脈では〈一者〉はある種の「自己」概念としても捉えることができそうであった。

 

ここではレヴィナスの〈一者〉概念を「自己」と捉えたうえで、「自己」概念について掘り下げて考えてみようと決めたのであった。

 

そこで参照項として思いついたのがデカルトだった。「われ思う、ゆえにわれあり」のデカルトである。存在の第一原理を「思惟」に据えた彼の自我論は、それ以降の哲学者を論じるうえでとても重要だ。

 

デカルトについては『方法序説』しか読んだことがなかったので、今回『省察』と『哲学原理』を読むことにした。自我の明証性から神の存在証明がなされる過程には驚いたが、むしろその驚きこそ新鮮で面白かった。

 

デカルトレヴィナスはけっして無関係ではない。というよりも、近代以降、デカルトに無関係な哲学思想はおそらくない。デカルトが「近代哲学の祖」と称されるだけあって、後世の哲学者への影響は甚大である。

 

その影響はレヴィナスが師事したフッサールにも強く及んでおり、その証拠にフッサールは『デカルト省察』にてデカルトの『省察』における自我概念の更新を試みている。こじつけのように見るかもしれないが、そういう意味では、デカルトフッサールレヴィナスという系譜が一応は成り立つように思われる。ゆえにレヴィナスデカルトを並べて語ることは、まったく不思議なことではない。

 

とはいえ、並べてみてはじめてわかったのだが、両者を結び付けようとすると存外大変なことになりそうなのである。なぜなら両者を結びつけるのは「無限」の概念であり、それは結局「神」とか「他者」とか、そういった西洋哲学に伝統的でかつ巨大なテーマに真正面からぶつかることを意味するからだ。

 

そもそも「自己」の概念もかなり大きなテーマであり、両者を関連させるまでもなく、はじめからこのテーマは自分が扱うにはあまりにも巨大すぎるというのは気づいていた。

 

だが、そうと分かっていながらも、彼らに注目することをやめるわけにはいかないと思った。なぜか。それは、両者はおそらく、別々の仕方ではあるものの、自我の「脆弱性」を痛烈に感じていたように思えるからだ。

 

デカルトは「神の誠実」に基づいて無謬の自我を構築し、そのことによって自我の脆弱性をもはや論じなくてもよいように、慎重かつ大胆に彼の思考の射程からそれを排除した。

 

他方でレヴィナスは、他者を既に主体に先行して受容してしまっているという「可傷性」を認めることで、鉄壁な自我などそもそも成立しえず、むしろ脆弱性こそ自我の存在基盤であると正当化することで、言い換えれば、脆弱性という欠点を「昇華」することによって解消しようとした。

 

一見真逆にみえる両者の体系であるが、私の印象ではむしろ「脆弱な自我」から哲学を開始するという点で共通している。だからこそ私は、彼らを並び立てて語りたいという欲求にとらわれているのだと思う。

 

現段階ではアイデアをとにかくアウトプットしまくっている。アイデアの断片ばかりで、体系化にはまだ時間がかかりそうだ。来年3月末を目途に、ある程度まとまった形で公開できたらと思っている。