「デカルト」と「レヴィナス」を並べて語る理由

存在の彼方へ』で頻出する〈近さ〉は、ハイデガーに極まる近代的存在論への批判概念として、レヴィナスの哲学体系全体をつらぬいて在ることを拙いながらも示そうと努めた。

 

振り返って読んでみると、仔細に論じるべき大きなテーマがいくつも配置されており、結局何ひとつ深く語れずに、全体を外観するにとどまったという印象をもった。一つのテーマをもっと丁寧に論じる姿勢が必要だと思った。次回以降の課題にしたい。

 

とはいえ、その記事が無駄になったというわけではなく、書いていくうちに次に考えるべきテーマが見えてきたのは大きな一歩だった。そのなかで特に注意深く追ってみたいと思ったのは〈一者〉の概念である。

 

〈一者〉はもともとプロティノスの概念らしいのだが、レヴィナスに影響を与えたかどうかはわからない。少なくともレヴィナスの文脈では〈一者〉はある種の「自己」概念としても捉えることができそうであった。

 

ここではレヴィナスの〈一者〉概念を「自己」と捉えたうえで、「自己」概念について掘り下げて考えてみようと決めたのであった。

 

そこで参照項として思いついたのがデカルトだった。「われ思う、ゆえにわれあり」のデカルトである。存在の第一原理を「思惟」に据えた彼の自我論は、それ以降の哲学者を論じるうえでとても重要だ。

 

デカルトについては『方法序説』しか読んだことがなかったので、今回『省察』と『哲学原理』を読むことにした。自我の明証性から神の存在証明がなされる過程には驚いたが、むしろその驚きこそ新鮮で面白かった。

 

デカルトレヴィナスはけっして無関係ではない。というよりも、近代以降、デカルトに無関係な哲学思想はおそらくない。デカルトが「近代哲学の祖」と称されるだけあって、後世の哲学者への影響は甚大である。

 

その影響はレヴィナスが師事したフッサールにも強く及んでおり、その証拠にフッサールは『デカルト省察』にてデカルトの『省察』における自我概念の更新を試みている。こじつけのように見るかもしれないが、そういう意味では、デカルトフッサールレヴィナスという系譜が一応は成り立つように思われる。ゆえにレヴィナスデカルトを並べて語ることは、まったく不思議なことではない。

 

とはいえ、並べてみてはじめてわかったのだが、両者を結び付けようとすると存外大変なことになりそうなのである。なぜなら両者を結びつけるのは「無限」の概念であり、それは結局「神」とか「他者」とか、そういった西洋哲学に伝統的でかつ巨大なテーマに真正面からぶつかることを意味するからだ。

 

そもそも「自己」の概念もかなり大きなテーマであり、両者を関連させるまでもなく、はじめからこのテーマは自分が扱うにはあまりにも巨大すぎるというのは気づいていた。

 

だが、そうと分かっていながらも、彼らに注目することをやめるわけにはいかないと思った。なぜか。それは、両者はおそらく、別々の仕方ではあるものの、自我の「脆弱性」を痛烈に感じていたように思えるからだ。

 

デカルトは「神の誠実」に基づいて無謬の自我を構築し、そのことによって自我の脆弱性をもはや論じなくてもよいように、慎重かつ大胆に彼の思考の射程からそれを排除した。

 

他方でレヴィナスは、他者を既に主体に先行して受容してしまっているという「可傷性」を認めることで、鉄壁な自我などそもそも成立しえず、むしろ脆弱性こそ自我の存在基盤であると正当化することで、言い換えれば、脆弱性という欠点を「昇華」することによって解消しようとした。

 

一見真逆にみえる両者の体系であるが、私の印象ではむしろ「脆弱な自我」から哲学を開始するという点で共通している。だからこそ私は、彼らを並び立てて語りたいという欲求にとらわれているのだと思う。

 

現段階ではアイデアをとにかくアウトプットしまくっている。アイデアの断片ばかりで、体系化にはまだ時間がかかりそうだ。来年3月末を目途に、ある程度まとまった形で公開できたらと思っている。

後期レヴィナス〈近さ proximité〉概念についての考察 ―〈顔〉から〈強迫〉へ―

1.「潜在的母体」としての〈近さ proximité〉概念

本稿は、20世紀フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906 - 1995)の第二の主著である『存在の彼方へ あるいは存在するとは別の仕方で』(以下、『存在の彼方へ』)において頻出する〈近さproximité〉概念の内実を明らかにすることを主たる目的とする。しかし、だからといって、〈近さ〉を主題化して、すなわち「〈近さ〉とは~である」というかたちで論述する方法を採用しない。というのは、レヴィナスは「主題化」に一種の「暴力」を見出しているからである。概念を主題化するということは、「普遍的な理解可能性」のうちにそれを置くということである。比喩的にいえば、知性の光のもとに概念を晒すことである。レヴィナスハイデガーに頂点を極めた西洋哲学(存在論)全体を批判対象とする。その西洋哲学が常套手段として用いるのが、「主題化」=言語による普遍的知性への還元なのである。それゆえに、レヴィナスは、批判対象であるこれまでの哲学が用いた「主題化」を、彼のテキスト戦略上、採用することはないのである。

 しかしながら、哲学という学問が言語を用いていとなまれる以上、「主題化」に抗うことなど果たして可能だろうか?「主題化」とはすなわち「言語化」であり、それが言語に依拠する以上、通らねばならない知の方法ではないだろうか。そうだとすれば、彼の哲学の方法というのは、自身が批判する言語(主題化の方法)によって思想を紡ぐという矛盾を抱きつつ、いかに主題化の呪縛から解放されるかについての探究であると言える。レヴィナスにおける哲学の方法論について、現在筆者は並々ならぬ関心を寄せているため、その論述はまた別の機会に譲ることとしたい。さしあたり本稿では、彼のこのような哲学的方法を「非主題的アプローチ」と名付け、そこに内在する理念を継承したうえで書き進めたいと思う。

 したがって、本稿の方向性としては、〈近さ〉の概念の内実を明確化することを目指しつつも、「~である」といったような主題化的な規定は行わない。本稿では、レヴィナス哲学の鍵概念でもある〈顔〉と〈強迫〉に関する考察を通じて、〈近さ〉が、いわばそれら諸概念の「潜在的母体」としてあることを示そうと思う。回りくどい方法を採用している自覚はあるものの、こうした「非主題的アプローチ」によってこそ、彼の哲学における理念にもっとも接近できるのではないかと筆者は考えている。

 

2.『全体性と無限』における〈顔 visage〉概念の考察

2-1. 抵抗としての〈顔〉の「認識不可能性」

本節では、『全体性と無限』における〈顔〉概念について考察する。通常、「顔」は、感情表現の場として想像される。顔つきや表情によって、相手が一体何を考えているのか、何かを感じているのかを、われわれは自然に読み取り、相手の感情を想像する。その意味で「顔」は「視覚」を通じて読み取られる「対象」であるといえる。

他方で、「顔」はその人自体をあらわす徴しでもある。他の誰でもない「あなた」を示す徴しとしての顔。人格性そのものとしての顔。「わたし」に何かを訴えかけてくる顔。顔には、「対象」という客観性には還元できない、特殊性・個別性がある。レヴィナスの語る〈顔〉もこのような意味を帯びてはいる。ただ、彼の〈顔〉概念は、次の点において著しく通常の理解から乖離している。すなわち、〈顔〉は見ることも触れることもできないという点である。視覚や触覚を介する認識にもとづくかぎり、あらゆる対象は「内容」として、自我のもとに内包されてしまう。〈顔〉は、見ることも触れることもできないゆえに、通常の認識の「対象」としては内包(了解)されえない出来事なのである[1]

では、〈顔〉のこのような「不可視性」ないし「不可触性」は、西洋哲学の系譜においていかなる意味をもつのであろうか。端的にいうならば、それは、「視覚」「触覚」にもとづく西洋哲学の伝統的存在論とは別の存在論の可能性を示しているという点にある。「視覚」と「触覚」にもとづく西洋哲学において、主体は客体を「見ること」によって「対象化」する。主体が客体を我有化(対象化)することによって、客体それ自体の固有性ないし他性は失われてしまう。そして、この傾向はアリストテレスからハイデーに至るまでみられる[2]。西洋哲学がしばしば「他者の不在」といわれるのは、このように、自我への対象の包摂(我有化)である存在論を中心として展開してきた歴史があるからだと考えられる。

したがって、伝統的な認識論・存在論の文脈から見れば、レヴィナスの〈顔〉概念がもつ特異性は明らかであろう。〈顔〉は見ることも触れることもできない。その不可視性・不可触性は、伝統的な存在論に亀裂を生じさせ、「別のしかた」を哲学に導入する重要なファクターとなる。

 

2-2.〈顔〉との言説的関係

2-2-1.「教え」を歓待する理性

〈顔〉が「認識不可能」な事態だとするならば、それはいかなる仕方で〈私〉との関係を取り結びえるのだろうか。というのも、〈顔〉が「認識不可能」であれば、主体にとってそれは「存在しない」も同然であり、関係を結ぶ以前の問題ではないかという疑問が直ちに浮かび上がってくるからだ。

結論からいえば、〈顔〉は「存在しない」といえるだろう。だが、注意しなければならないのは、それは伝統的な存在論の規定における意味では「存在しない」のであって、レヴィナスは、従来の存在論とは「別のしかた」の一つの可能性として〈顔〉を記述しているのである。つまり〈顔〉は「存在の彼方」なのである。

さて、〈顔〉はその認識不可能性によって、「存在の彼方」あるいは「絶対的他性」として記述されるわけだが、このとき〈私〉は、絶対的他性である〈顔〉とどう関わるのだろうか。レヴィナスは、全体性のシステムのうちに統一されないような、〈同〉(=私)と〈他〉(=絶対的他性)の関係を構想する。その関係とは「言説的関係」のことである[3]

但し、それは「書かれた言語」というよりも、「話された言語」であることに留意したい[4]。いや「話された言語」というのは正確ではない。ここでの「言語」とは、「開口」の瞬間の「発話」である。〈顔〉の「命令」として〈私〉に下されるという事態だと押さえられていれば十分である。

〈顔〉は、〈私〉にむかって「言説的(倫理的)関係」へと参入するよう命令する。この「言説的関係」は、「普遍性」に開かれた次元であり、カントでいうところの「叡智界」に相当するものと考えられる。「叡智界」は「理性」の領域である。この理性的領域においてはじめて、〈同〉は〈他〉によって疎外されず、〈他〉は〈同〉によって包摂されない、相互に不可侵の関係、すなわち、〈同〉と〈他〉の全体への統一なき絶対的両立関係を結びえるのである。

〈顔〉はその発話を通じて、〈私〉に言説的関係へと参入するよう命令する。〈私〉もまたその呼びかけに対応できるだけの「理性」を必要とする。つまり、「言語」という「理性」である。但し、「言語」は「理性」の従属物ではなく、むしろ「理性そのもの」[5]としてあるのであり、言説的関係=倫理的関係が「第一哲学」として、存在論に先行する理由だろうと考えられる。言語という理性を有する者として、〈私〉は「有責者」=応答可能性を有する者とみなされる。「責任」とは、言説的関係(言語にもとづく普遍性の次元)にたつ理性的存在者の、〈顔〉への「応答可能性 resposibilité」を指しているのである。

ところで、レヴィナスにとって「理性」とはいかなるものとして語られるのだろうか。まず、従来的な意味での「理性」ではないことは確かである。その従来的理性とは、伝統的な主客関係のなかで作動している。主体が客体を認識することによって「対象」(=事物)へと転換されてしまう。この「対象」への転換は、〈他〉の〈同〉への包摂であり、我有化である。つまり、従来の「認識」を媒介するかぎり、主体にとって客体はつねに「既知」であり「知解可能性」な存在なのである。そのような関係においては、すべてが存在論的「知」に還元され、他人の他性(未知性)は完全に消去されてしまう。

だが、レヴィナスの「理性」概念は、主客関係ではなく、言説的関係において作動する。そこでは、他人の他性をそのままに、他性を尊重しつつ、〈私〉と対面する関係を保持する。他人は、私の意識から溢れ出す〈無限〉の観念[6]であり、それをみずからの既知によって還元するのは不可能なのである。したがって、言説的関係において他人はつねに私を「超越」する者として、あるいは、私に「教え」を授ける者として、私にむかって到来する。私は、この「命令」ないし「教え」の受容を自らの自由意志によって決定することはできない。私はこれを「歓待」する以外にないのである[7]レヴィナスは、このような命令(としての他者の〈顔〉)の「歓待」こそ「理性」であると考えている。伝統的な理性概念にしたがえば、それは事物を知解可能な対象へと還元することによって、他性を我有化=同化してしまうのだが、レヴィナスのいう理性は、〈顔〉を通じた命令を「歓待」することで、「アレルギーなき他性との関係」を保持するのである。

このとき、私は、〈他人〉にとっての「対話者」として召喚されているともいえる。要するに、〈顔〉にもとづくこうした関係は「対話的関係」なのである。しかし、ここで注意しなければならないのが、この「対話的関係」は、決して私と〈他人〉の「対等」な関係を意味するのではない、という点である。〈他人〉は、〈私〉の観念を溢れ出る〈無限〉の観念として記述される。私は〈有限〉であるが、他者は私にとって〈無限〉である。この関係が、互いに対等な関係ではないというのは明らかであろう。したがって、私と〈他人〉が、言説の観点からは「対話的関係」に置かれつつも、有限性/無限性の観点からは「非対称的関係」に置かれることとなる。他人の〈顔〉の要請は、いわば「非対称的対話関係」という捻じれた関係をもたらしていると言えるだろう。

 ここまでの内容をまとめてみよう。他者の〈顔〉の到来は、〈私〉に言説的(倫理的)関係に参入するよう要請する。言説的関係は「理性」としての「言語」を第一義とする関係であり、〈同〉と〈他〉の統一なき併存関係である。しかしながら、両者は対等であるわけではない。あくまで非対称的に、他者の〈顔〉の「教え」を、〈私〉の理性が歓待するという形式によってのみ成り立つ、いわば「非対称的対話関係」として、〈私〉と〈他人〉は結ばれうるのである。

 

2-2-2. 言説的関係の条件としての〈分離〉あるいは〈享受〉

 それでは、〈顔〉との言説的関係がそもそもなぜ可能なのだろうか。〈顔〉が発する「教え」を〈私〉の「理性」が歓待するという形式が成立するには、主体が他者から〈分離〉されていなければならない。というのも、〈私〉と他者が十分に隔てられていなければ、歓待するという営みさえままならないからである。〈私〉と他者に差異があってこそ、この関係は成り立つ。したがって、〈分離〉は言説的関係にとっての必要条件であるといえる。

〈分離〉は、存在の全体性から断絶された自我の「自存性」を示している[8]。存在の全体性とは、個体の個別性を抹消する暴力を指しており、初期において〈イリヤ〉と呼ばれるものである。〈イリヤ〉は、〈無〉という事態の存在不可能性を示している。つまり、〈無〉自体がすでに〈ある〉の充溢を物語っている。〈無〉は、「存在」を前提した「不在」と捉えられ、真に〈無〉ではありえない。このような「存在」=〈ある〉の圧迫によって、自我の個別性は全体性の闇の中に消え去ってしまう。初期において、自我が〈実詞化〉=主体生成することで、〈イリヤ〉から脱出し、主体性の確保を可能としている[9]

〈分離〉は、初期における〈実詞化〉にも共通していると考えられるかもしれない。なぜなら〈分離〉は「融即」から自我を引き離しその「内奥性」をもたらすからである。「内奥性」は、自我の内面性と言い換えてもよいだろう。全体性の「融即」は〈イリヤ〉であり、そこから「内奥性」を確保することで、自我の自存性が保持される。

このように〈分離〉がもたらす自我の「内奥性」ないし「自存性」は、具体的には〈享受〉のいとなみにおいて確保される。〈享受〉は、世界のうちに実る「元基」を糧にしながら、自らを養ういとなみを示している。「元基」とは、例えば、水であり、パンであり、睡眠であり、読書であり、日向ぼっこといった、ごく日常的な豊かさを挙げることができる[10]

「元基」は、主体の「対象」ではない。ゆえに、主体によって包摂されることはない。とはいえ、主体は「元基」を〈享受〉し、自らの内側に養分として取り込む。このいとなみは、我有化=対象化にも見えるのだが、決してそうではない。「元基」を〈享受〉することは〈…によって生きること〉であって、いわば、主体は元基によって「生かされている」のである。より正確にいえば、主体はそれらのうちで「生きている」のである[11]

さて、このような〈享受〉のいとなみにおいては、私と(「元基」として、あるいは〈他なるもの〉としての)世界は、いわば渾然一体となっている。私が食べるパンは、私の口から入り、消化されて、私の生きるエネルギー(糧)となる。私は生きているが、パンによっても活かされている。一方が他方を支配・統御する関係ではなく、一方と他方のいずれにも主導権があり、同時に、どちらにもないような、そのような宙づりの関係が〈享受〉にはある。ここでは、主体と客体、あるいは能動性と受動性といった二項対立はほとんど無効化されている[12]

 

2-2-3. 〈享受〉による輪郭の解体―「可傷性」について

〈享受〉のいとなみは、私と世界の関係を曖昧にし、能動性と受動性の対立を消失させ、私を宙づりの状態に置いてしまう。〈享受〉のこのような非-決定性ないし流動性は、私を象る輪郭をゆるやかに解体していく。私という輪郭が失われ、私は世界と一体化するような主体の不在が感覚される。世界が私の内側に滑り込むように侵入する。私が世界なのか、世界が私なのか、判然としない感覚。もはや感覚しているのが私なのかさえおぼつかない。

〈享受〉におけるこのような主体の曖昧さは、後期思想における「可傷性」とも関連してくると考えられる[13]。「可傷性」は〈享受〉をその条件とする。〈享受〉は世界を糧として私のうちがわに取り込むいとなみであり、そこでは、私と世界(あるいは他者)を分ける境界が無効化され、主体の主導権がどちらに属しているのか判断しようのない、曖昧な状態に置かれる。もはや〈私〉と〈世界〉といったように、明確に区別された概念として名指すことすら不可能となっている状態なのである。

このような自他の境界の曖昧性は、主体の輪郭の曖昧さでもある。経験的な水準で例えるならば、それは、私を守り覆うはずの皮膚の脆弱性である。私を象る境界としての皮膚の傷つきやすさ。レヴィナスは、このような身体の傷つきやすさを「可傷性」として述語化する。

「可傷性」は、いわば「感性の麻痺」であるといえる。というのも、他者へと曝露を通じて、私が傷つき、苦しむ感性だからだ[14]。カントの超越論的感性論において、「感性」は対象の一次データを受け取る受動的な機能として描かれていた。だが、その「感性」というのは、それ自体は静的であり、永続的に正常に機能する受動性である。カントは、「感性」そのものが対象によって動揺させられ、麻痺させられるという意味での受動性を考慮してはいなかった。レヴィナスは、感性そのものが動揺し、機能を損なう可能性を考えていた。それがここでいうところの「可傷性」である。

カント的な「感性」において、世界は客観的対象であり、主体の理性によって十分に知解可能である。ゆえに、客観的世界は〈私〉の認識作用によって既知に回収されてしまう。これは、対象化を可能にする「隔たり」が前提されているからだ。「隔たり」は主体と客体の関係を固定化・構造化するために、相互の内実へのアクセスは不可能となる。

主客の静態的構造を措定する認識論の観点からすれば、「可傷性」は単なる「麻痺」あるいは「錯乱」の感性として映るだろう。なぜなら、主体と客体は「隔たり」のうちにあり、相互に干渉する事態など想定され得ないからだ。だが、レヴィナスは、まさにこの「麻痺」「錯乱」の感性として「可傷性」を呈示する。それは、主客構造とは異なる様式である、〈他人〉との〈近さ〉の関係において呈示されるのである。

私を覆い守るはずの皮膚が剥がされて、否応なく私が他者に露呈されてしまうような、そのような関係としての〈近さ〉。認識にもとづく主体と客体のあいだの「隔たり」が、自他を区別する「境界」が、私を象る「輪郭」が解体され、〈私〉と〈他人〉は〈近さ〉という関係のもとに結ばれるのである。

以上の話をいったんまとめてみよう。他者の〈顔〉との言説的関係は、私と他人が、いわば確固とした主体性を有するがゆえに成り立つ関係である。私が〈顔〉の「教え」を歓待することができるのは、そのような絶対的分離が両者を隔てているからである。ゆえに、言説的関係に際しては、〈私〉は〈他人〉から〈分離〉している必要がある。〈分離〉の条件となるものが〈享受〉である。〈享受〉は、他なるものである世界を糧として私の内側に取り込むいとなみであり、それは私の内奥性、すなわち個別性を確保するエゴイズム的ないとなみでもある。

ところが、この〈享受〉はエゴイズム的であるにも関わらず、〈他なるもの〉たる世界との関係の曖昧性も同時に示している。さらにいえば、この曖昧性は、〈私〉が〈他人〉との〈近さ〉の関係のうちにあることを示している。〈近さ〉の関係にあるがゆえに、〈私〉の輪郭は常に解体されるリスクに晒されている。主体の感性の「錯乱」状態を、レヴィナスは「可傷性」と呼んだのであった。以上のように、〈顔〉の言説的関係を可能としている根源的な条件とは、まさに〈近さ〉という関係のうちにあることであり、また、その中で「可傷性」に晒されている事態そのものなのである。いいかえれば、〈顔〉は、主体の輪郭が解体し、主体と客体(世界)が曖昧となる〈近さ〉の関係にあってはじめて成立する概念なのである。

さて、〈享受〉がもたらす輪郭の解体、あるいは「可傷性」としての感受性は、〈強迫〉の概念にも通じている。〈顔〉は〈私〉にむかって言語的関係に参入せよと命令する。私はこの〈顔〉の「命令」ないし「教え」を否応なく受け入れる。こうして〈私〉と〈他人〉が〈顔〉=言説を通じて結ばれる言説的関係(非対称的対話関係)が生じる。非対称的対話関係は、「人格的関係」でもある[15]。自己は他者の呼びかけに応答することが可能な、理性的存在者である。理性的存在者はまた「人格者」としての資格をも与えられる。このように言説的関係は、単に生理学的・生物学的に捉えられる動物性の段階から、倫理的な人間性・人格性の段階へと私が導かされていることの証左でもある。

ところが、後期に至ると、人格的(倫理的=言説的)関係を要請する〈顔〉の切迫性は後退し、非人格的な〈イリヤ〉としての圧迫、すなわち〈強迫〉に変容するのである。〈強迫〉は〈私〉の意識を撹乱し、不安に陥れる。もはや〈私〉に対して、理性的な「対話者」としての「人格性」を要請することはない。次節では、『存在の彼方へ』における〈強迫〉概念について考察する。

 

 

3.『存在の彼方へ』における〈強迫 obsession〉概念の考察

本章では、後期の鍵概念のひとつである〈強迫 obsession〉ついての考察をおこなう。それを論じるに際してまず留意したいのは、〈強迫〉はつねに「意識」概念との関連において考えていく必要がある、という点である。なぜなら、〈強迫〉は主体の主体性である「意識 conscience」が作動する圏域には回収されない、理性の異常事態だからである。別の言い方をすれば、〈強迫〉は「意識」にまつわる一切を転覆してしまう事態なのである。西洋哲学全体が依拠してきた理性的あるいは意識的主体モデルに対するアンチテーゼとして、〈強迫〉は提示されたと解釈することも可能だろう。

以下の論述では、〈強迫〉の「意識」との関連を念頭に置きつつ、次の観点から考察していく。すなわち、 (1)志向性、(2)自己所有、(3)時間の三つである。ただし、最後の(3)時間については、論述するための考察に十分に時間を当てられなかった事情から、本稿以降の課題として、今回は論述しない[16]。前者二つの観点から〈強迫〉概念を考察していこう。

 

3-1. 「意識」を撹乱する〈強迫〉

3-1-1.「志向性」としての「意識」

まず「意識」とは、言い換えれば「志向性」のことである。これはフッサールの「志向性」概念に由来する。「志向性」とは、対象への意識の方向づけである。意識は必ず対象へと結びつけられていて、対象から分離した意識はありえない。例えば、「私はレヴィナスについて考える」という命題を考えてみよう。このとき、私は「レヴィナス」という対象(目的語)について「考える」(動詞)。「フッサール」や「ハイデガー」など他の哲学者についてではなく、私は「レヴィナス」について「考える」のである。この命題において、「考える」という動作は「レヴィナス」に結びつけられており、「レヴィナス」という目的語を取り除いて、単独で「考える」ことはできない。考える主体である私は「意識」と等しい[17]。したがって、「意識」は、それ自身が単独で存在しているのではなく、つねに対象との関わりにおいて、対象の志向性として存在する。より正確にいうならば、「意識」は「志向性」そのものである[18]。このように「志向性」は、意識が対象と分離されないことを示す作用として記述される。

ところが、レヴィナスはこの「志向性」を批判する。つまり、意識が対象への方向づけであるのに対して、レヴィナスの〈強迫〉は、それと逆向きに作用しているのである。「志向性の逆転」が生じているのである[19]。「志向性」はまた、意識(主体)が対象へと向かう能動性であるわけだが、このような逆転が意味する事態とは、まさに「志向性」における「能動性」の停止である。それは、主体を起点とする一切の行為の能動性を不能にしてしまう。なぜなら、主体が対象を志向する以前から、すでに〈他人〉による〈強迫〉を受けているからだ。その意味で主体は、つねに受動的であらざるをえない。主体の主体性は自らに起源があるのではなく、〈他人〉に主体のイニシアチブは譲渡されている。レヴィナスが措定する主体は、徹底的に受動的なのである。

 

3-1-2.「自己所有」としての「意識」

二点目について、レヴィナスは「意識」を、自己の「喪失」と「再発見」を繰り返す「自己所有」の運動であると規定している[20]。「自己所有」とは、ここではわかりやすく「アイデンティティの確立」といいかえてもよいだろう。われわれは生きていくなかで、さまざまな人々と出会い、さまざまな経験を積み重ねることを通じて、徐々に成熟していく。そして、成熟の過程は、他者のとの未分化の状態を脱して、自己を確立していく過程でもある。しかしながら、成熟とは一方向にまっすぐ進んでいく明快なプロセスではありえない。そこには、苦痛、トラウマ、疾病、障害、死など、自己に対する否定的な経験も含まれているからだ。そのような経験を通じて、われわれはおのずと「私とは何者なのか」「何のために生きているのか」と自己の存在意義について疑問を抱き、そして悩む。この否定的な経験はいわば「自己喪失」である。とはいえ、自己喪失の状態にとどまり続けるわけにはいかない。否定性を乗り越えて、自己を再発見する。「私は他の誰でもない私である」「私が生きているのは、このためなのだ」。自己喪失から自己の再発見を通じて、自己は他の誰でもない〈私〉という実存を獲得していく。これが「アイデンティティの確立」の過程であり、「自己所有」の運動である。

ここに見出せるのは、意識の運動においては「所有する自己」と「所有される自己」の関係が前提されているということである。便宜上、前者を「自我」、後者を「自己」と呼ぼう。「自我」は文法でいえば主語に相当する。「私は学生である」という文を考えたとき、「私は」の主語の部分が「自我」である。そして、「学生である」が述語に相当し、「私」という主語に内実を与える「自己」の役割をもつ。「自己所有」とは、普遍的な「自我」が個別的な「自己」と一致している状態を表している。このような自己(意識)モデルは、まさにヘーゲルの意識モデルそのものであるといえる[21]。初期レヴィナスはこのようなヘーゲルの意識概念を継承していると思われる。『実存から実存者へ』における〈実詞化〉の論述に際して、自己の二重性が見受けられる[22]

さて、本稿で重要なのは、レヴィナスにとって意識(自己所有の運動)は「存在論的戯れ」にすぎないという点である。つまり、意識の内部に属するかぎり、外には決して出られず、存在の「精神的冒険」にはなり得ない、言い換えれば、自己の存在基盤を書き換えるような、本来的な「未知の他者」との邂逅は永遠に剥奪され、全て「既知」ないし「知解可能性」に還元されてしまうのである[23]

われわれは、自分以外の存在、すなわち他者との出会いを繰り返しながら成熟していく。ときには、自己と折り合いがつかないような異質な出来事に遭遇し、苦しむのだが、それでも自己をつくりかえることで何とか異質性を受容していく。他者の他者性ないし異質性が、主体の成熟をもたらすと言ってもよいだろう。その意味でいえば、未知なる他性を「既知」へと還元してしまう意識の知のスキーム[24]は、主体に成熟をもたらしえないのではないか。レヴィナスが、「意識」を「存在論的戯れ」にすぎないと述べるのは、それが、主体が異質な他者を受容し成熟していくプロセスをもたらし得ないと考えているからであろう。

以上のように、レヴィナスは、ヘーゲル的な自己の弁証法的発展では真に実存を獲得するには至れないと述べていたわけだが、それでは、彼にとっての実存への道筋はいかなるものなのか。

先ほど、意識の二重性についてふれた。いわば意識は「対自的な自己意識」であって、自己と非-自己の弁証法的発展によって対自的な自己意識に止揚される。「反省する自己意識」と言い換えてもよいだろう。ヘーゲルらにとっては、このような前者と後者の合致が実存の獲得の正当な方法なのであった。だが、後期レヴィナスは、その自己の二重性を否定したうえで、一切の属性をもたない唯一無二の自己自身=〈一者〉への回帰こそ重要であると説く[25]。〈一者〉は、強迫され、迫害された「被害者」である。安息の地を追放され、行く宛を失って彷徨い続ける、そのような迫害の犠牲者である。この〈一者〉には、自分自身以外にもはや依拠するものなど何も無く、ただひたすらに自己自身であるほかに、実存を確保する術はない。レヴィナスは迫害の犠牲者としての〈一者〉を、対自的な自己意識にもとづく実存のオルタナティブとして提示していると考えられる。

 

3-2. 非人称的な〈イリヤ il y a〉と〈強迫〉

3-2-1.〈強迫〉としての〈イリヤ

前節までで確認したのは、〈強迫〉が「意識」に関する様々な働き(志向性、自己所有としての弁証法的発展、時間的秩序の構成)を撹乱し、意識的主体としての機能を停止させてしまう出来事として記述されている点であった。この記述が示しているのは、つまり、主体が主体はもはや意識的主体として定位されるのではなく、非-意識的あるいは非-理性的な「錯乱者」として定位されるということである。

西洋哲学が措定してきた伝統的な理性的主体が依拠する「意識」の世界は、比喩的にいえば〈昼〉の世界であるといえる。高々と空に頂く昼間の太陽が、事物をその光のもとに晒す。光はあらゆる事物を知解可能なものへと還元していく。事物は、光のうちでは隠匿されることはなく、その内実のすべてが明らかにされ、自明のもの=対象と化すのだ。主体はその主体性をいかんなく発揮することができる。

ところが、〈強迫〉は、この意識的な〈昼〉の世界を撹乱する。意識(の光)がまったく届かない、闇に覆われた〈夜〉の世界をもたらす[26]。〈夜〉のうちでは、自他の境界は失われ、闇そのものが一挙に、何の留保もなく、私の全体を包摂してしまう。視界を奪われた私の眼は、開いていても閉じていても暗闇の只中であり、もはや他者との距離を推し量ることは不可能となる。このような視覚の無力化によって、「意識」はその権能を剥奪され、いかなる対象の認識をも不可能にしてしまう。

〈強迫〉が示すこのような〈夜〉としての様態は、初期における〈イリヤ il y a〉と酷似している。〈イリヤ〉概念についてはすでに2-2-2で言及しているが、改めて取り上げると、それは存在一般へと主体を回収しようとする全体性の暴力である。それは、いましがた述べた〈夜〉のように、意識が住まう〈昼〉の明るさを、存在の暗闇で覆い尽くしてしまう。事物の知解可能なものへの還元の不可能性。あらゆる事物が、ただの無機物として、対象化もされずどんな意味ももちえない物質性として、存在一般として、ただそこに〈ある〉。物質性が剥き出しとなった単なる存在一般[27]のことを、レヴィナスは〈イリヤ〉と呼んだのであった。

また、〈夜〉=〈イリヤ〉としての〈強迫〉は、具体的他者からの「強迫」とは異なっている点に留意したい。たとえば、〈顔〉による切迫は、たしかに、ある種の強迫性を帯びてはいる。私は他者の〈顔〉の呼びかけに対して応答を迫られる。その訴えを私は自由意志に基づいて斥けることはできない。その受動性ゆえに、〈顔〉の切迫は強迫的であるといえるだろう。とはいえ〈顔〉における他者というのは、師、貧者、寡婦、孤児といった具体的な人称性を纏っている[28]。つまり〈顔〉とは、形而上学的観念の抽象性から溢れ出る、誰かの〈顔〉なのである。具体的他者としての〈顔〉は、それが人称性を纏っている以上、私にたいして、同等の理性的人格者としての地位を授ける。言い換えれば、人称的な他者の〈顔〉は、私にも同様に誰か(何者か)であることを要請するのである。そのような他者と私の関係が2-2-1で論じた「言説的関係」なのであった。

他方、本章の〈強迫〉概念は、〈顔〉のような具体人称性を帯びていない。なぜなら、それは〈夜〉だからだ。〈夜〉は〈イリヤ〉でもあり、特定の誰かに起因する事態ではない。「存在者」ではなく「存在そのもの」の飽和状態が〈イリヤ〉なのだから。以上のように〈強迫〉とは、理性の光を一掃する〈夜〉の闇であり、また、事物の物質性を徹底的に前景化する〈イリヤ〉でもあるのだ。

 

3-2-2. 「錯乱者」としての主体 ― 不眠、迫害妄想

ところで、われわれは有限の肉体をもつ生命体である以上、「睡眠」は不可欠ないとなみである。眠ることによって、われわれが生活するうえで必要な活力を得ることができる。ところが、〈イリヤ〉のうちでは、主体は自らにとっての安息の場所を構えることができず、つねに不眠の状態に晒されてしまう[29]。安心して眠れる寝床はなく、眠りたくても眠れぬ夜を過ごし続ける主体。その様態は、見えない何者かによってとり憑かれ、強迫観念に苛まれているかのようである。したがって〈強迫〉とは、安息の場所の確保を阻害し、つねに〈夜〉の不可視の海で眠れぬ日々を強制するような、主体にとって強迫的ないし迫害的な事態として記述される。

他者の〈強迫〉は、その意味で、私をもはや「理性的存在者」として呼びかけてはいない。不眠に苛まれた主体の意識はいまや朦朧としており、その疲労ゆえに、もはやまともに思考することは困難である。それにまた、本節の冒頭にも記したが、〈強迫〉はそもそも主体の意識を不能に陥れてしまう。〈顔〉が私を理性的存在者として言説的関係への参入を要請するのとは対照的に、〈強迫〉において私は「錯乱者」(狂気)として定位される。さらにそこでは、主体は他者不在のたった一人の関係に置かれる。どういうことだろうか。繰り返すようだが、他者の〈強迫〉は非人称性であり、特定の誰でもない。ということは、実質的には、関係を取り結ぶべき具体的他者が欠損している事態を示しているといえる。〈強迫〉は、不在であるはずの他者が、あたかも〈ある〉かのように見せかけている=隠蔽している事態をも示している。

村上(2012)は、このような主体の迫害妄想症状(精神疾患)によって「他者の可能性が確保されることで、他者の不在という破局は回避される」と述べる[30]。これまで〈イリヤ〉は具体的な人格をもたない非人称的な他者であると述べたが、それはいわば「空気」のようなものである。目には見えないが、たしかにそこに〈ある〉。空気は、当然のことながら、それが収容されるべき「空間」を前提とする。この「空間」が対人関係を不可能にする、他者が欠損した「非場所」なのである。逆説的ではあるが、この〈ある〉さえもない「虚無の空間」=「非場所」に主体が置かれたとき、迫害妄想という精神病(狂気)が要請される。要するに、精神病は「外傷 [対人関係の不可能性] から脱却するために必要な装置」なのである[31]

 

3-3. 対人関係とは別のしかたで 〈近さ〉と「非場所」

前節までで確認したとおり、非人称的な他者の〈強迫〉=〈イリヤ〉は他者の不在を隠蔽しており、対人関係の不可能性からの「治癒」として主体の「妄想」(狂気)が要請されるのであった。では最後に、この狂気を主体にもたらす「非場所」について言及して、本稿を閉じようと思う。

「非場所 non-lieu」は、その名が示すとおり、具体的な「場所」ではない。「場所ではない」とは、どのような出来事なのか。そのことを考える前に、まず前提として「場所 lieu」の概念について考えてみたい。「場所」は事物がその延長を占める当の領域のことを指している。事物はまた存在者でもあるから、存在者の存在が可能となる条件としての、いわば「存在のプラットフォーム」であると考えることができる。そして、この「存在のプラットフォーム」は、存在者が存在の「不安」に脅かされない「安全基地」としても機能している。このような「安全基地」としての「場所」を、レヴィナスは『全体性と無限』における〈住居〉という概念として記述している。そもそも『全体性と無限』は、絶えず訪れる全体性から主体が分離するプロセスを描いた書物である[32]。〈住居〉は、主体の〈享受〉の次の分離プロセスとして設定されている。それは、主体が単に自己保存あるいは自己の快楽のための自閉的な享楽を脱却し、他者へと超越するために必要な分離プロセスである。〈住居〉によって、その次に来る〈労働〉あるいは〈言語〉的な関係が可能となる。このように〈住居〉は、主体を全体性の暴力から防御し、存在を保証する「場所」でもあるのだ。

それに対して「非場所」とは、あらゆる存在者が依って立つような、具体的な場所ではまったくない。非場所には、存在者が立脚するために必要な足場もなければ、存在者同士を隔てる障壁も存在しない。存在論の圏域には回収されない、まさに「存在の彼方」なのである。それゆえに、「非場所」は「~である」という肯定的・主題的な叙述によっては記述不可能である。まさにそれは「非主題的」としか形容しようのない事態なのである。筆者が本稿の冒頭で述べた「非主題的アプローチ」と名付けたレヴィナスの哲学的方法は、まさにこの「非場所」によって体現されているといえる。

「非場所」は、存在論の内側で語られるような、存在基盤としての「場所」ではない。いや、より正確にいえば、「非場所」という具体的な名称すら本来は与えられない。なぜなら、それは「非主題的」な観念だからである。レヴィナスは「非場所」の「非主題性」を認識しつつ、それでも「非場所」を可能なかぎり非主題的な方法で語ろうとする。それが先述した「虚無の空間」である。〈イリヤ〉という「空気」さえも含まれない、他者が完全に欠如している空間を指している。他者の不在。主体とは相いれない異質な他者がもはや存在しない世界。それは、主体的な他者が存在しないというよりも、主体と他者の境界が失われ、渾然一体となった一元性の世界の様相を呈している。それは、言い換えれば、主体に対して相互主体的な他者が不在となる状況である。主体と他者を区別できないほどに、両者は近づいてしまっている。「非場所」「虚無の空間」とは、主体と他者の各主体性の支持基盤が解体された、〈近さ〉の関係そのものなのである。このような〈近さ〉の関係は、主体と他者が何らの媒介に依拠することがなく、何らの汎用的属性によっても表象されない、徹底的に「自己自身」であることによってのみ成り立つ、直接的・具体的な関係である。

 

4. 結論 ― 近代的存在論への抵抗としての〈近さ〉

最後に、ここまでの内容を振り返ってみよう。はじめに、われわれは、『全体性と無限』における〈顔〉概念の考察をおこなった。他者の〈顔〉は、主体に対して「言説的関係」に参入せよと命令する。主体は〈顔〉の命令に否応なく応答する義務(責任)があり、「言説」を通じた倫理的関係へと、いわば巻き込まれるような形で参入を促される。また、ここでいう「言説的関係」は主体と他者の相互に対等な関係ではない。他者は〈無限〉であり、そのことが有限である主体との非対称性を如実に表している。このような非対称的な「言説的関係」の存立条件として〈享受〉が必須である。〈享受〉において、主体は世界における「糧」を消費することでその主体性を確保している。〈享受〉による主体性の確保は、同時に、主体と世界(他者)の境目を曖昧のものとし、能動性/受動性の二項対立を無効化してしまう。主体と他者の言説的関係は、実際、〈享受〉のいとなみがあって初めて成立する関係なのである。

さて、他者の〈顔〉との関係は主体に対して「理性的存在者」として参入するよう要請する。ところが後期の〈強迫〉における関係では、主体はそのような存在者としてではなく、むしろ「狂気」の主体として召喚される。〈強迫〉は〈イリヤ〉となり、〈イリヤ〉は「非場所」の他者の不在を隠蔽する。〈イリヤ〉のベールが剥がされた先に現れるのが「非場所」ないし「虚無の空間」であった。主体と他者は未分割な一元性の内側に置かれ、主体はその他者の不在を「狂気」によって埋め合わせようとする。〈強迫 obsession〉とは要するに「憑依」[33]「妄想」なのである。

他者の〈顔〉の存立条件は、〈享受〉のいとなみであり、〈享受〉による自他の境界の曖昧さは〈近さ〉の関係のうちで成立する。そして、〈強迫〉による狂気は、自他未分化の「非場所」において出現する。狂気を要請する「非場所」は、主体と他者の極度の接近を示しており、つまり〈近さ〉の関係にある。以上の考察を総合したうえで、次のように結論したいと思う。すなわち、レヴィナスの哲学体系全体をつらぬいて、〈近さ〉の概念が「潜在的母体」として機能している。「潜在的」と強調するのは、それはたしかにあるものの、明瞭に顕在化することなのない通奏低音として、彼の体系の奥底で鳴り響いているさまを示したかったからだ。このことは、本稿の冒頭で述べた「非主題的アプローチ」とも無縁ではない。「非主題的アプローチ」は、西洋哲学に伝統的な「主題化」に対する抵抗である。この主題化への抵抗は、存在者の背後に流れる「不可視のもの」への欲望でもある。「不可視のもの」への欲望は、もちろん存在論的な意味での知の欲望とは異なる。存在論的欲望は、あらゆる事物の存在を知性の光に晒すがゆえに、それらの背後に潜む「不可視なもの」を可視化する。可視化とはすなわち客観化であり、対象化である。レヴィナスは、存在論に宿る可視化・客観化・対象化の運動に対して、「非主題化」を通じて一貫して抵抗してきたのである。

非主題化による抵抗は、本稿の〈近さ〉において如実に表れていると筆者は考えている。さらに、〈近さ〉は近代の存在論が前提としてきた「空間」概念をも批判するに至る。そもそも「空間」とは幾何学的な意味での空間を指しており、ニュートン以降の自然科学において、量的に還元可能な「客観的空間」として措定されてきた。このような方法論を哲学に導入したのが啓蒙主義思想であった。ここで啓蒙主義の特徴に立ち入ることはしないが、ひとつ言えるのは、啓蒙主義による自然科学的な世界観を「超越論哲学」として確立したカントは、「空間」をすべての理性的存在者に共通する客観的認識の形式として自明視する傾向を作り出してしまった。以降の哲学でも「空間」の幾何学性は自明のものとして、あらゆる思考に織り込まれることとなった。そして、ハイデガーに極まる存在論も、この傾向を脱してはいないだろう。このような「空間」を前提とするかぎり、自己と他者は絶対的な懸隔によって明確に区別され、相互の内奥性に干渉することはまずありえない。相互干渉が生じないということは、個体性の閉域に閉じこもることでもあるものの、それは自己自身の実存の獲得としてではない。というのも、近代的な空間の内部においては、主体の具体的な経験内容をも均質化され捨象されてしまうからだ。つまり、デカルト的な「自我」として、主体の具体的経験は一般化されてしまうのである。

他方で、〈近さ〉は、主体と他者の境界が曖昧なために、相互の内実に干渉しあう可能性を多分に含んだ「非場所」の条件として提示された。相互干渉可能性は、相互に傷つき・傷つけられる可能性をつねに含んでおり、主体の個別性の閉域に閉じこもることができない。それは、「空間」(場所)における「自我」の一般性によって保全された、主体と他者の安全な関係ではありえない。主体は他者に迫害され、追放され、ついに「非場所」へと追いやられる。主体はもはや何によっても自己の内実が保証されない。どのような汎用的属性、普遍的知性にも属しない領域だからだ。「非場所」は、このように、近代的「空間」とそれに支えられた「自我」、そして、そこから展開する「存在論」には還元されない「存在の彼方」なのである。「非場所」の条件としての〈近さ〉は、このような存在論に対して、真に実存的な問題を投げかけているといえるのではないだろうか。

 

【参考文献】

 

[1] E.レヴィナス,藤岡俊博訳『全体性と無限』(講談社学術文庫,2020)p.343

[2] 同上 p.334

[3] E.レヴィナス,藤岡俊博訳『全体性と無限』(講談社学術文庫,2020)p.50

[4] 言語(言説)のこの区分については、後期において〈語ること〉〈語られたこと〉として述語化される。〈語ること〉とは、〈私〉が〈他人〉にむかって発話する「運動」として捉えられる。それは、言語的コミュニケーションよりも手前にある、より根源的なコミュニケーションである。

[5] E.レヴィナス,藤岡俊博訳『全体性と無限』(講談社学術文庫,2020)p.368

[6] 同上 p.72-73

[7] 同上 p.360-361

[8] 同上 p.192

[9] 『実存から実存者へ』における〈実詞化〉概念は、たしかに〈イリヤ〉からの分離を企図しているものの、分離を経てもなお「私は私であらざるをえない」という自己への繫縛からは逃れられていない。その意味で、いまだ主体は「存在の重荷」である。

[10] E.レヴィナス,藤岡俊博訳『全体性と無限』(講談社学術文庫,2020)p.191

[11] 同上 p.192

[12] 同上 p.200

[13] 杉村 靖彦,渡名喜 庸哲,長坂 真澄編『個と普遍―レヴィナス哲学の新たな広がり』(法政大学出版局,2022)平石晃樹「享受と傷 〈同〉の内なる〈他〉としての主体性をめぐって」から着想を得た。

[14] E.レヴィナス,合田正人訳『存在の彼方へ』(講談社学術文庫,1999)p.158

[15] E.レヴィナス,藤岡俊博訳『全体性と無限』(講談社学術文庫,2020)p.389

[16] 〈強迫〉を「時間」の観点で読解する着想は、『存在の彼方へ』の次の引用から受けたものである。「近さの関係は、すでにして召喚であり極度の火急事であり、――、アナクロニックな仕方で一切の約束に先だった債務である。…意識には還元不能なこの関係を、私たちは強迫と呼んだ。」(p.236)「アナクロニック」が示すように、〈強迫〉は意識における時間的秩序とは異なる時間性をもたらす観念と考えられる。それは「隔時性」として術語化されていると考えられる。

[17] デカルトの「コギト」概念は、「自己」と「意識」の同一視した自我概念の原初モデルであろう。この近代的自我モデルが、「私」であるとはそのまま「意識」であることを意味するようになったのではないかと筆者は考えている。

[18] フッサールにおける「志向性」概念については、富山豊『フッサール 志向性の哲学』(青土社, 2023)を参照した。

[19] E.レヴィナス著,合田正人訳『存在の彼方へ』(講談社学術文庫,1999)p.236-237

[20] 同上p.232-233

[21] ヘーゲルの意識概念については、レーヴィット著,三島憲一訳『ヘーゲルからニーチェへ (上)・(下)』(岩波書店, 2015)を参照した。

[22] E.レヴィナス著,西谷修訳『実存から実存者へ』(ちくま学芸文庫,2005)p.52

[23] 同上 p. 232-233

[24] なお、意識における知のスキームは「普遍性」ないし「全体性」への還元である。本来「意識」はそれを有する個体の個別性そのものを示しているはずだが、まさにその「意識」という普遍性のもとに集約されることで、個体性は失われている。意識的知には、あらゆる事物や出来事の固有性を抹消するよう機能してしまうのである。

[25] E.レヴィナス著,合田正人訳『存在の彼方へ』(講談社学術文庫,1999)p.251

[26] 西谷修『夜の鼓動に触れる 戦争論講義』(ちくま学芸文庫,2015)を参照した。

[27] 「物質性が剥き出しとなった存在一般」に対する強烈な違和感は、サルトルの『嘔吐』にも共通する感性としても考えられる。

[28] E.レヴィナス著,藤岡俊博訳『全体性と無限』(講談社学術文庫,2020)p.000

[29] E.レヴィナス著,西谷修訳『実存から実存者へ』(ちくま学芸文庫,2005)p.141-145

[30] 村上靖彦著『レヴィナス 壊れものとしての人間』(河出ブックス, 2012)p.150-153

[31] 同上

[32] 村上靖彦著『レヴィナス 壊れものとしての人間』(河出ブックス, 2012)p.94

[33] 邦訳著作のなかで« obsession »を「憑依」と訳するものもある。佐藤真理人・小川昌宏訳『実存の発見―フッサールハイデガーととともに』(法政大学出版局, 1996)がある。